「中世的」という揶揄について
国連から批判を受けて日本の上田大使「シャラップ!」とブチギレ – YouTube
「我々はこの分野で最も進んだ国」、という表現は大使が日本の司法制度への自虐、ではなく弁明ために発したものだという点に苦笑を禁じ得ないわけですが、中世史研究をしていて気になるのはしばしば政治家、マスコミが用いる「中世的 medieval / mittelalterlich / moyenâgeux」という言葉です。
ここでは日本の人権保護の現状が「中世的だ」と批判されていたわけですが、こういう文脈で政治家、マスコミが用いる「中世的」は、大抵的外れなものです(無論、日本の人権保護の現状はひどいものなのですが)。事実啓蒙時代、あるいはもっと遡った時代から、「中世」の語を何かを侮蔑する際に用いる慣習があった。しかし、「暗黒の中世」イメージはもはや中世史家の意識的な営みにより払拭されている。それにもかかわらずレトリックとしてここまで強固に用いられ続けるのにはほとほと呆れるばかりです。
今、「西洋史演習」という授業でドイツ語講読をしています。そこで我がDoktorvater、アルフレート・ハーファーカンプ先生が書かれた『Gebhardtドイツ史ハンドブック』第1巻の第1部を読んでいます。冒頭で中世という時代(認識)に関して史学史的にまとめており、まさにこの悪しき中世イメージについて言及した部分があります(S. 36f.)。そこでは「マスコミや社会科学で語られてきた中世像」と「中世に関する専門諸科学が出してきた成果」という「二つに分離した中世 das zweigeteilte Mittelalter」があると論じられています。しかしそこで着目すべきは、「専門の歴史家達が意識的であれ無意識的であれ同時代の言説や政治的プログラムに参画しており、そうして時代に拘束される形で研究し叙述している」という指摘です。それゆえ「二つの中世」の境界線は流動的だというのです。
こうして、単純に「マスコミ、政治家」対「中世の専門家」の対立を見出すことは謹まなければならないわけです。しかしそれでも「中世」言説は、それにより思考停止が容易になるがゆえに、これからも安易に流布することになるのでしょう。その時に読み手は、「おいおい」と違和感を表明できるくらいのリテラシーを備えておきたいものです。
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