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「回顧と展望」2011年の歴史学界を読んで その1

Blog, 文献紹介, 雑感

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ひょんなことから読む機会をいただいた今年の『史学雑誌』「回顧と展望」。これに目を通すことはいわば年中行事ですが、年によって当たり外れが大きくこれほど書き手に依存した「テンプレート企画」は無いのではないかと再確認しました。

白眉はやはり深沢先生の「総説」で、そこで吐露される現状認識には深く納得し、採り上げられる日東西の最新文献はいずれも手にしたいものです。とりわけ冒頭の東日本大震災関連の叙述は、歴史学がいかにアクチュアルたり得るかを各研究者に問いかけます。実際にあの異常な揺れを体験し、人の営為を一瞬でこそげとった津波を(テレビ中継でではあるが)目撃し、直後の原発・食料問題に由来する不安を多くの人と共有したこの身で、歴史研究はいかになされていくか。長い目で見ていかなくてはなりません。

そして最後に指摘された、目にするたびにうんざりする「史料主義問題」は、著者によって極めて明解に解決されています。共同研究プロジェクトの成果が執筆者各人の地道な専門研究に基づくものであることを強調した上で、著者は次のように述べます。

この数十年来、専門研究の細分化の結果、歴史の巨視的展望が失われることに対して、繰り返し警鐘が鳴らされてきた。「木を見て森を見ない」、「重箱の隅をつつくような」、「史料主義に埋没した」狭隘な研究姿勢が、「書いた本人以外は誰も読まない」論文を量産し、歴史の主体的意味を見失わせる、というのである。現状を憂える気持ちはわかるが、これはおそらく「偽りの問題」であり、因果関係を逆に理解しているのではないか。*1

因果関係が逆というのが肝で、一次史料に基づいて詳細な分析を行うがゆえに歴史の巨視的展望が失われるのではなく、その研究者に歴史の巨視的展望がないがゆえに重箱の隅をつつくような研究が量産されるわけです。個人的な感想ですが、日本人による西洋史研究は、間違いなく以前に比べその質は向上している。しかし担い手が増えているため玉石混淆はなはだしく、良質な論文にアクセスする手間が以前に比べ少しかかるだけなのでしょう。しかしこれは欧米学界でも同じこと。むしろ他国と同じ「発展段階」にあることはポジティヴに捉えるべきでしょう。

それゆえ若い研究者を意気阻喪させるような批判を繰り返すよりも、多少とも普遍的な意味を持つ研究課題を積極的に提示し、若い世代を牽引するような研究活動を組織することのほうが、先達の果たすべき役割として大切ではないだろうか。*2

これは教授クラスの人文系研究者の果たすべき役割が変容してきたことと関連するのでしょう。研究者個人に配分される研究費が削られ、科研の枠組みで競争的資金が増えている以上、これまでのように個人的な研究で定年まで・・・というわけにはいかないのですね。現在の大型プロジェクトでもう少し積極的にやるべきだと思うのは、その予算で博士論文を書かせることのように思います(もちろんCOE等で行われていますが)。リーダーは自らの研究課題で院生含む若手を結集し、自らは好むと好まざると「巨視的な」歴史叙述を展開するのがお仕事となるのでしょう。

むしろこの点で心配なのは、就職機会の縮小に伴って若手研究者の安全志向が強まり、「無難な」正統的テーマを選好する順応主義の雰囲気が支配的になると、自由で創造的な学問的発想が萎縮することだろう。*3

若手、特に院生の研究テーマはいかに決定されるべきか。これが大学院重点化により院生の増加を受けて立ち現れる問題です。特にプロジェクトに参加して博士論文を執筆する場合、そのテーマは往々にしてプロジェクト全体のテーマに引っ張られます。しかしそれが問題かと言えば決してそうではなく、結局素晴らしい博論は優秀な院生から生まれるわけで、昨今の大きな変化がそれを阻害しているようには思えません。

ただ、唯一博士課程の3年縛りだけは、人文系、特に歴史学の場合難しかろうと思います(実際に3年で仕上げる方もいますが)。博士課程の院生全員は無理にしても、+αで数年分、生計が立てられるポストが相当数あると業界全体が幸せなのですが・・・。

「回顧と展望」のそれ以外については、気になることがあればまた後日改めて。

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