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『史学雑誌』「2007年の歴史学界 回顧と展望」第117編第5号 2008年

Blog, 文献紹介, 雑感

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やや遅れましたが、明けましておめでとうございます。
今年は専門分野により一層深く立ち入ると共に、博士論文を意気自如たる姿勢で着実に書き進めたいものです。

さて、とあるルートから去年の「回顧と展望」を入手したのだが、実に興味深い記述があったため引用したいと思う。

以前、その1年前の「回顧と展望」を引用したが、それと同じ傾向、いや着目するポイント次第ではより大胆な文章をまた見つけた。

 ドイツ近代史に限らず、歴史学の専門誌や紀要等に掲載されている外国史の論文をみると、まず、当該国の研究史の詳細な把握を行い、論点整理の後、残された課題を見つけ、それを一次史料、できれば未公刊の手書き史料をつかって分析していくという手法が貫かれている。こういった手続きはもちろん正当なものであり、とくに若い研究者にとっては欠かすことのできない訓練となっている。
これは、もちろん否定すべきことではないし、歴史研究の第一におかれるべきものであろう。ただ、一方で何か釈然としないものを感じる時がある。われわれ日本人は、当該国の研究者と同じ土俵で相撲をとろうと、そんなに躍起にならなくてもよいのではないか。もっと自由な研究も許されてよいのではないか。あちらの学界で問題となっている争点・視点や歴史概念にとらわれすぎていないだろうか。極端にいえば、そんなものは無視してもよいのではないか。さまざまな歴史研究あるいは歴史叙述を、われわれなりに「実験的に」試みてもよいのではないか。そういった試行錯誤のなかから、「われわれの」あるいは「私の」外国史叙述が見えてくるように思うのだが。それではおまえがやれといわれれば返す言葉はないのだけれども。*1

第2段落はどの部分も納得しがたい。「私の」外国史叙述となると、もはや学者の営みではなくなる。現在日本の西洋史研究に起こっている変化へのリアクションということを理解しつつも、さすがに言葉を失う。

また、「われわれ日本人は、当該国の研究者と同じ土俵で相撲をとろうと、そんなに躍起にならなくてもよいのではないか。」という部分は、次の記述に見事に対応していて興味深い。

これらの研究成果が示しているのは、少なくとも新しい歴史学の潮流に関する限り、多くの研究者が世界中で同じような問題意識と方法で歴史を研究するようになってきたということである。ナショナル・ヒストリーについては、日本における日本史研究の多くがそうであるように、国ごとに独自の見方や関心が維持される場合が多いが、世界全体では間違いなく歴史研究の一体化が進んでいる。だとするなら、日本人の研究と外国人による日本語の業績だけを論評の対象とする本「回顧と展望」のコンセプトは再考すべき時に来ていると言えるだろう。*2

現状認識、そしてそれへの対応の仕方を明確・適切に示しているという意味で、今年の「歴史理論」は白眉だと思う。
日本の歴史研究、とりわけ日本史研究や東洋史研究は質・量共に大変優れいており、いずれその担い手の人達と共に研究していけたらと思う。例えば、個人的には日本史の中世寺社研究から多くを学べるのではないかと思っている。

*1:下田淳「近代―ドイツ・スイス・ネーデルラント」『史学雑誌』第117編第5号、2008年、347-348頁

*2:羽田正「歴史理論」『史学雑誌』第117編第5号、2008年、7頁

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