『史学雑誌』「2006年の歴史学界 回顧と展望」第116編第5号 2007年
一年以上も前のものなので、日本におられる方々は一通り議論、消化している文章かと思われるが、手元にあるのでそのまま引用しておく。
近年、外国語の文書館で日本からの研究者らしき人々の姿を頻繁に目にするようになった。一次文献へのアクセスは年々容易になり、それをもちいた研究の質はあきらかに「向上」はしているだろうが、同時にわれわれは「まず文書館ありき」という強迫観念にとらわれてはいないだろうか。そもそも、ドイツにおいては公刊された一次史料ですら膨大な量に上る。日本人研究者は、それらを有効に活用した上で文書館へ赴いているのであろうか。この文書館への異常ともいえるこだわりが、(特に若手研究者にとっては)研究者が本来積むべき研鑽の中途部分をスキップさせてしまってはいないだろうか。もし評者のこの指摘が的を射ており、しばらくこの傾向が続くのであれば、今後研究者の基礎体力が低下していくことは必至であろうし、外国史としての歴史研究に取り組むわれわれが本来重視すべきである、論文執筆の動機や意図、そして歴史の全体像を示すという作業がおろそかになる危険もある。一次文献を利用して論文の精密さを向上させるということのみに気を取られるようでは、「論文のための論文」が量産されることにならないだろうか。日本の読者に(そして、国外に向けて情報を発信しているというのであれば、もちろん外国の読者にも)「知的興奮」を与える研究が減少していくのではないかという、強い危惧を抱く。*1
一年と少し前、ベルリンで行われるセミナーに出席するため西の果てから東の果てへ7時間の大移動をしたのだが、その車中でこれを読んでいた。書き手は「この傾向」を危惧し、「論文執筆の動機や意図、そして歴史の全体像を示すという作業がおろそかになる危険」に警鐘を鳴らしているのだが、僕には「この傾向」は歴史家としての当然の営為だと思うし、「論文執筆の動機や意図」が先立つことで、せっかく史料が多くのことを語ってくれているのに、それを掴み損ねる危険性が増大するのではないかと、逆に危惧してしまう。
もちろん、「歴史の全体像を示す作業」は必要だし、筆者の言う「知的興奮」を与えてくれる研究がもっと増えてほしいという願いには強く共感するのだけれど、結局のところ、「歴史研究者とは何をする人?」という素朴な疑問に対し、この筆者とは立ち位置が全然違うのかもしれないな、というのが最終的な感想。
ミュンスター再洗礼派研究日誌さんも興味深いコメントをしておられます。
さらに続いて
読者という脈絡でさらに指摘すべき傾向は、外国語による論文執筆が相当数見られるようになったことである。前述した状況とも併せて考えるならば、われわれはいったい誰に、なにを、どのように示そうとしているのであろうか。論文とはメッセージであり、受け手なしには成立しない。*2
とも書いているが、はっきりとした文でないのでコメントが難しい。「外国語による論文執筆が相当数見られる」現状をポジティヴに評価しているのか、ネガティヴに評価しているのか。前者であってほしいのだけど。
はじめまして。トラックバックありがとうございます。
この問題はインセンティブ設計の問題ですから、この批判は、若手研究者ではなく、制度を作る側の文科省や大学教員の制度設計に対する批判のはずです。にもかかわらず、他人事のように書かれているのはどういうことなのだろうとは感じました。
勝手にリンクしてしまい、申し訳ありませんでした。
コメントありがとうございます。
全く僕も同感です。
これはあくまで僕の認識ですが、現在歴史学(特に西洋史学)は大学制度の中であまりいい状況にはないと思うんですよ。その理由として、まず何より学界全体として「自分たちはこういう営みをするのだ」という(大まかでいいのですが)共通認識が無い、あるいはそういうものを形成する努力がなされていないということを挙げることができると思います。これは研究の目的設定、さらには方法論にまで遡る問題です。例えば、博士論文に求める水準という問題が典型的なものとして挙げることができます。
引用した文章は、自分の考えを「投げっぱなしジャーマン」的に書いておいて、「じゃあどうすればいいの?」という問いに対し現実的な状況を踏まえて答えていません。字数の問題もあったのかもしれませんが、共通認識を築いていこうという意志が感じられないという点で、ちょっと無責任に映ります。
あと、この文章から、何となく輸入学問としての「古き良き西洋史学」の香りを感じて、鼻につくのかもしれませんね。言い過ぎかな?