松村圭一郎『これからの大学』を読んで その1
岡山大学で公私ともにお世話になり、いつも刺激を受けている友人、文化人類学者の松村圭一郎さんが『これからの大学』(春秋社、2019年)を上梓した。僕個人としてはずいぶん待望していた彼の大学論で、送ってくれて心より感謝を。早速読み進めているが、何回かに分けてエントリーを書いていこうと思う。
まず第1章「大学ってどんな場所?」からの抜粋。
大学は、社会のなかで「異の空間」でありつづける必要があります。何かがよくわかるような場ではなく、いったんよくわからなくなったり、疑問が芽生えたり、自分自身を問われるような場に身をおいたほうが、人は成長できます。・・・大学がその役割を果たすには、大学が高校までの教育と社会人としての生活の間のひとつの断絶として、根本的な問いを喚起する深い沼になっている必要があります。
38頁
これは、現在進行中の大学教育の透明化と画一化に対する、教員の立場からの返答と言ってよい。大学が「三つのポリシー」などと目標を明確にし、学生には修学計画を立てさせPDCAを実践させて何かやった気になっているのは、ひとえに文部科学省による「指導」の賜物である。かつてはヴァライエティに富んでいた大学教育も、文科省が予算を握ったまま独立行政法人にして介入の度合いを強めたことで、今や判を押したようにかわり映えのしない「ポリシー」に従わざるを得ない。そうした大学という「器」の中で、上で引用したような知的営みをどう実践していくのか、教員は頭を悩ませているのである。松村さんの筆致は丁寧で物腰柔らかだが、この引用箇所は、そうした現状に警鐘を鳴らしているという点でメッセージ性はとても強い。本書は、大学が置かれた昨今の状況抜きには成立しなかったと思える。
第2章「学問のすすめ」は、大学で何を学ぶかについて。
大学は、なんらかの知識や経験をもつ人がその知識や経験を知らない学生に披露するための場所ではありません。大学の教員が経験してきた時代と、これから学生が世の中に出て働いていく時代はつねに違いますし、歩んでいく人生そのものが大きく異なります。
57頁
これはいわゆる実務家教員批判の文脈。これを受けて、学生は「物事を見極め考える方法」(58頁)を身につける必要があるとしている。至極真っ当な指摘である。僕がこの章を読んで想起したのは、近年の大学教育におけるカリキュラムについて。以前所属していた大学では、第3期中期計画の中で(つまり文科省の強い圧力のもとで)様々なカリキュラムがスクラップ&ビルドで作られていった。とりわけ初年次教育は複雑になり、教員・学生の半数もそのコンセプトは理解できていない。改革が進む中で僕がいつも気にしていたのは、①カリキュラム改革と学生個人の自由度との関連と、②カリキュラム改革と学生間の情報伝達の密度との関連であった。
まず①について。必修科目が増加すると、学生の自由裁量の余地が狭まる。必修単位数だけを見ると、多くの大学でそれほど変化がないように見える。しかし、初年次ゼミを中心に、教える内容の多様化と画一化はあらゆる年次で行われているはずである。つまり、「教える内容の決め打ち」化が進んでいるのであり、本書著者が切々と訴えている大学の社会的役割からかけ離れていっているのが現状である。一方、カリキュラム改革の中には学問のタコツボ化を抑制しようとする力学も働いていることも忘れてはならない。前所属先では数年前にコース(哲学とか心理とか歴史とか)ごとに設定されていた選択必修の枠が取り払われ、コース間の移動が容易になった。つまり自由裁量の余地が広がったのである。これにはいい面もあるので、学生がちゃんと本籍地を定めアイデンティティを持って学べるのであれば許容しようと思ったが、僕は総合的に見て(元所属先のように)ちゃんと教室(研究室)が定まっていた方が好みである。というのも、学生に自由を与えることと並行して何が進むかというと、部局におけるパワーバランスの変化と部局長に対する権限の集中である。一方で部局の権限が骨抜きになっている昨今、このことが意味することは明らかである。カリキュラムにおいて、学生の自由裁量をどうコントロールするかは、大学の体質そのもの、つまり大学改革の加速度に影響を与えるということを忘れてはならない。
②の「学生間の情報伝達の密度」の問題も深刻である。学生は、常に各科目について、各教員について情報を交換して、効率よく単位を稼ぐ生き物である。さもしいと思えるこうした生態は、しかし極めて真っ当であり、むしろ彼らが今後生き抜く力を身につける上で有益である。「必修の科目Aは試験でこれが出る」「教員Bの講義は楽勝」などといった情報のやり取りを深める中で、学生は相互に信頼関係を醸成し、時に疑心暗鬼になり、いずれにせよ様々な社会的モーメントを経験するのである。しかし、今のように文科省の求めの応じてカリキュラム改革を毎年のように行い、かつ専門によってきめ細かく必修・選択必修科目を設定してしまうと、学生個人の経験が学年の異同を問わず役に立たなくなってしまう。つまり、カリキュラム改革は学生から相互に信頼を確立する契機を奪い、過度に島宇宙化を推し進めてしまうのである。ただでさえ社会がそういう情勢なのに、大学がそれを加速させてはいけないのではないか。
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