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ミシェル・ヴォヴェル「漫画の国のマリ・アントワネット」

5月の西洋史学会で書店ブースに行くと、東大の院生たちが『クリオ』(33号、2019年)を売りにきていて、恒例なので目次も見ずに購入した。帰りの新幹線で表紙を見ると、ミシェル・ヴォヴェルと漫画が同じタイトルに並んで書いてある。もはや意味が分からないのでページをめくってみると、あの革命史の大家が孫娘と一緒に(実際に一緒にかどうかは分からないが)池田理代子の『ベルサイユのばら』を読み、それについて率直に語っているという内容で、日本の漫画はフランスの権威ある老人まで虜にするのかと思い、とても感慨深くなった。

実際読み通してみると、そこはやはり革命史家らしく、『ベルばら』がフランス革命に対してどのようなスタンスを取っているのかについて触れているわけだが、叙述の大半は、男装する女性オスカルの描かれ方から、ベルばらの持つジェンダーへの射程についてである。しかし、僕個人として関心があるのは、

「この漫画は、ある歴史的段階において学校教育で教えられた知識を参照させる。作者は、外国人である読者のための教育にかなり熱心であるため、事実の正確さに一定の配慮を示し、事実のなかにちりばめられた逸脱について詫びたり、弁明したりする

の箇所。漫画独特のナラティヴとして、そういう手法は確かによく見られるなと気付かされた。研究者が本文の叙述を注釈で弁明するかのように、作中に作者自身やその代替としてのキャラクターを登場させてそれに語らせるあの手法。歴史漫画、というか歴史に着想を得た漫画は、歴史的事実から逸脱する時にこそ、そのフィクションとしての魅力を遺憾なく発揮する、というのが僕の考えだが、それを作中断りなしにやるのか、それとも池田理代子のようにたまらず一言言っておくのかで、作品の性格はかなり変わってしまう。いずれにせよ、ヴォヴェルは漫画の持つ独特のナラティヴに対して極めて敏感である。漫画という形式にさほど慣れ親しんでいるとも思えないのに(実際はわからないが)、そういう分析をサクッとできてしまうところが心憎い。最後に歴史漫画を歴史にまつわる「集合的想像界(imaginaire collectif)」に(強引に)回収するあたり、そこは心性史の大家の特権であろうか。

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