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井上浩一「西洋史学の現代的課題」

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2011年に退職されたビザンツ史家が、これまでの長いキャリアを踏まえて西洋史学のありかたを語った論考「西洋史学の現代的課題ーあるビザンツ史研究者の選択ー」を出され、これがインターネット上で話題になっていた。著者のビザンツ史に関する業績は枚挙に暇ないが、私はとりわけ西洋史学研究のあり方に関する近年の動向に注目を寄せている。

私もできる西洋史研究―仮想(バーチャル)大学に学ぶ (大阪市立大学人文選書)

私もできる西洋史研究―仮想(バーチャル)大学に学ぶ (大阪市立大学人文選書)

本書は未読だが、これを踏まえて今年から展開している「バーチャル大学」の試みは面白そうである(少なくともこのHPに上がっている「教材」は要チェック)。

たまたま手に取る機会を頂戴した本論考は、西洋史関係者だけではなく、日本史・東洋史の方々にも一読をお勧めしたい内容になっている。まず、この種の議論で必ず参照されるのが一方で我が師匠高山博が提示した「ハード・アカデミズム」「ソフト・アカデミズム」概念で、もう一方は竹中亨氏の「発見する歴史学」と「解釈する歴史学」概念。両概念セットはほぼ同義と考えてよく、高山は「新しい知を作り出す創造的行為」である前者を、竹中は日本人として諸事情を勘案して後者を強調する。これらを踏まえて、日本人による西洋史学の進む道として何がふさわしいか、公式非公式の場を問わず散々議論されてきた。

ハード・アカデミズムの時代

ハード・アカデミズムの時代

竹中亨「「発見する歴史学」か「解釈する歴史学」か?」『西洋史学』200号、47-51頁、2001年

著者は、第一章で日本における西洋史研究の変容を指摘し(「筆者未見」から「筆者のみ見」は関西人らしくて思わずニヤリとさせられる)、第二章で上で紹介した概念セットを検討し、さらに近年の川北稔氏らによる「ハード・アカデミズム」一辺倒に対する警鐘を踏まえ、最後に自らの立ち位置を表明する。そこで僕が共感するのは、日本の西洋史学界がハードかソフトかという単純な二者択一をする必要はなく、研究者個々人が自らの資質等を踏まえて選択すればいいじゃないかという主張である。全くその通りだが、さらに付け加えるとするなら、一人の研究者でも、その時その時の関心に応じてある時は最新の研究に没頭し、そしてまたある時は俯瞰的な視点から自他の研究成果を検討する、というような姿勢で取り組めばいいのではないかと思う。多くの優秀な研究者は、これを無意識に実践しているのではなかろうか。逆に言えば、この両方の姿勢なくして高山の言うところの「新しい知」を作り出すことは難しいし、講義で刺激的な議論を展開するのもまた難しい。

それはそうとして著者は、学界全体がハードに流れていく中で、竹中の言うところの「解釈する歴史学」に取り組むことを選んだという。そしてここにこそ本論考の肝があるのだが、その「解釈する歴史学」も、日本固有の問題意識(天皇制論とか近代化論とか)から脱却してグローバル化するべきだという。詳しくは実際に論考を読んでもらうとして、これには共感せざるを得ない。著者はビザンツ史における戦争に着目してその営みを開陳し、「ソフト・アカデミズム」におけるグローバル化の意味を教えてくれる。

ハードにせよソフトにせよ、「日本人による日本独自の西洋史学」という次元から脱却する必要がある、というのはほぼ共通理解が得られるのではないかと思う。なぜ脱却する必要があるかと言えば、ひとえに世界の研究者と共通の土俵でコミュニケーションを行うためであろう。しかし、そうすると大変興味深い「皮肉」に遭遇することもある。ヨーロッパに留学して研究する若手を見ていると、教授や同僚から「日本史ではどうなのか」とたびたび問われたり、場合によっては研究において日本との比較をさせられたりすることもあるようである。それ自体学問的意義があることは間違いないが、「日本人として」から脱却せねばと思っていた矢先、「日本人として」を研究上強く意識させられるのである。幸い自分はヨーロッパ史の古典的な枠組みで研究させてもらったが、研究者としてアイデンティティを確立する途上で、こういう状況におかれるのは大変刺激的である一方、いささかしんどいのではないかと考える次第である。

 

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